23通目



フリーペーパーをつくり始めて、10年。「10」のいろいろなことを書き綴ります。

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この23通目を書き綴り始めたのは、2020年10月31日(土)満月の夜です。

そういえば、まだおなかの中にいた娘が動き始めたのが、2007年7月29日(日)満月の夜。もう翌30日(月)になっていたと思います。出産予定日から1週間経っても出てくる気配のなかった娘が、確か雷の音にびっくりして動き始めたんです。その後、朝になってから病院に行くもなかなか出てこず。18:00になったら救急車で大きな病院へ……となっていた直前の17:58に生まれてきたのでした。

現在、目の前で、やらなあかんことがあるのに、スマホを見ながらゴロゴロする娘を見ていると(しかも、時間ギリギリになって慌て出すという)、「おなかの中にいた頃から、こんな子だった気がする」と妙に納得してしまうのです。

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2

1通目を書き綴ったのは、2010年10月のことでした。当時、私は28歳、娘は3歳。2020年の今、私は38歳、娘は13歳になりました。保育園児だった娘は、小学生時代を経て、今は中学1年生です。

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この頃、よく思い出すのは、幼い頃の娘が「抱っこ、抱っこして」と言っていた姿です。未婚のシングルマザーとして娘を育てていくにあたって、すごく気をはっていたところもあって、娘との時間を大切にできていなかったかもしれないという後悔が、ふと過ります。心に余裕がなくて、娘を十分にぎゅっとしてこなかったかもしれない・・・

今頃になって「抱っこさせて」と言うのだけれども、娘からは「きもい」と言われます。まあ、確かに……スマホを見ながら、お菓子を食べていたら、母親が突如として現れて、何の脈略もなく、「抱っこさせて」なんて言ってきたら、気持ち悪いですよね。

小学6年生の時はさせてくれる時もあったのですが、中学生になってからは全然だな・・・としょんぼりしていたら、先日「抱っこしたるわ」と逆オファー。「じゃあ」と手を広げたら、ワキをくすぐられて、こしょばし合いこ。まだ、こんなことでクネクネと笑い合えるのが、なんだか幸せでした。

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夜中に目覚めて横を見たら、娘の顔ではなく、足があることが・・・13歳の今もあります。保育園児の頃、「どうやって一回転しているんだろう?」と謎に思いましたが、その時よりも背が高くなった今、「スペース的にどうやって?」と謎はますます深まるばかり。

最近も、掛布団や毛布を蹴りまくり、最終的に自分の身体の下に敷いてしまうので、「風邪をひいたら大変」と私の掛布団や毛布をかけていくのですが・・・最終的には、全掛布団と毛布を被ってぬくぬくと眠る娘の横で、寒さに震える私という構図。たまに、「寒いやんかー」と文句をささやきながら、毛布を奪ってみたりもするのですが(笑)。

こんな日常の些細な出来事も、「あの頃は」といとおしく思い出せたらいいなと思いました。生きていれば、日々いろんなことがあって、幸せなことばかりじゃないけれど。こうした幸せなことを、ちゃんと覚えていたいなあと思います。

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娘とは全然、好みも興味も趣味も合いません。「かわいい」とキュンキュンするものも、「いいなあ」とときめくものも、全然違います。

雑貨などの場合、私は「素朴で愛らしいもの」、娘は「白黒。ばちっとかっこいいもの」が好き。スキンケアの場合、私は牛乳石鹸洗顔オンリー、娘はYouTubeや雑誌などを見て研究。おでかけの場合、私は自然の中でのんびりしたい派、娘は東京などショッピング&都会派など。同じ家に暮らし、一緒に歳月を積み重ねてきたけれど、そもそも違う人間だから当たり前なのですが、不思議でおもしろいなあと思います。

互いに刺激を受け合うこともあり、私は最近ニベア保湿を再開しました。あと、「TWICE」の曲も聴くように♪ 娘はこのフリーペーパーづくりにつきあってくれています(笑)。そろそろ、つきあってくれなくなるかなあ??という予感も。

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テレビやSNSなどを見ていて、よく感じることがあります。その人の言っていることに、私も賛同するけれど、すごくとげとげしたものを感じて、なんだか傷つく。

自分の意見が正しいという前提、相手の意見を聞く気がない、その人の意見がどうかではなく、そもそもその人が嫌い・・・ということが伝わってくるからでしょうか。想いが強ければ強いほど、そうなってしまうことがあるなあと、私自身も反省します。

そうしてしまうと、違う価値観や意見の人、嫌いな人と対話ができなくて、いつまで経っても対立。表現の仕方や聞く姿勢のつくり方・・・そして、自分自身に「ただの攻撃になってない?」など問いかけ続けることが大切なんだろうなあと思っていました。

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昨年、父が入院・手術を経て退院した時、お祝いとしてオレンジ色のチューリップを家に飾りました。すると、家も家族の気持ちもぱぁっと明るくなり、「花が大きく開いたなあ」「散りゆく姿もいいものだなあ」と日々を豊かにもしてくれました。

一方で、花屋さんで虹色の薔薇を見かけて、「話題性のために人工的につくられたのかなあ」と想像してしまい、複雑な気持ちに。私の「花を買って飾る」という行為も、自分勝手な欲求を満しているだけなのかな・・・など考え続けています。

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新型コロナウイルス感染症拡大防止のための緊急事態宣言が発令された時、外出するといえば、食料品の買い物だけだったので、運動不足解消も兼ねてスーパーまで歩くようにしていました。

いつもなら自転車でぴゅーっと通り過ぎてしまうところを、てくてくと歩いてみると、「こんなところがあったんだ」「ここにこんなお花が咲いていたんだ」と、身近な景色や出来事を丁寧に見るようになりました。見慣れている日常の中にも、たくさんの発見や喜び、楽しみがあることに気づけたんです。

世界でも、日本でも、身近でも、日々さまざまなことが起きています。そのような中でも、そんな発見や喜び、楽しみが心にゆとりを与えてくれ、その心のゆとりが自分自身の元気や誰かを想えるやさしさにもつながるような気がしました。

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1年ぶりくらいに電話で話した方から「元気?どうしている?」と聞かれて、「相変わらず」と答えてしまった私。電話を切った後、「相変わらず」なんてことはないよなと思いました。

私1人のことに限らず、毎日毎日さまざまなニュースを見ながら、その渦中にいるそれぞれの立場の人のことを想像すると、私が「日常」と思っている日々のほうが、むしろ「非日常」なんじゃないかとさえ思えてきます。

目の前にいるあの人も、もしかしたらしんどい渦中にいるのかもしれない。そう想像すると、出会う人に、やさしくありたいなと思います。お店のレジで「ありがとうございます」という時も、ちゃんと気持ちを込めて目を見て伝えようとか、しんどそうかなと思う人を見かけたら、気持ちが楽になるような言葉をかけてみようとか、最近連絡を取っていないなという人に「元気にしてる?」と連絡してみようとか。

そういえば、未婚で娘を出産することを決めた時、応援してくれる方々もいましたが、なかなか傷つくことを言われる場面も多々あり、「この子は祝福されないのか」と落ち込んだことがありました。そんな時、たまたま道ですれ違っただけの、知らない人から「もうすぐかしら。楽しみね」と声をかけてもらって、心が救われたことがあります。

同じ今を生きている者同士、みんなが影響を与え合って生きているのだと思います。そして、ほんの一瞬、道ですれ違うだけでも、誰かを救うことがあるのだから、出会う人にやさしくありたい。そのためには、心のゆとりが大事だから、自分も大事にしよう・・・そんなことを考えていました。

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10

「えんを描く」を書き綴り始めたのも、もともとそういう想いが原点にあったように思います。10年前も、今も、変わったようで、変わっていないのかもしれません。

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~「えんを描く」のコンセプトのようなもの~

日々、さまざまなニュースを見ながら、つらくなったりかなしくなったり。なんで、こんなことが起こるんだろうと思うことがあります。

この現実を変えるほどのことはできないけれど、たとえば「近所の人にあいさつをする」「エレベーターで乗り合わせた人と天気の話をする」「最近、連絡をとっていない友だちにメールしてみる」など日常のささやかなことからつながっていくものがあるのではないかなあと思いました。

近所の人にあいさつをしていたら、おじさんから「あんたがあいさつをしてくれるだけで嬉しいわ」とお寿司をお裾分けしてもらったり、おばさんから「家の電灯を変えられへんから手伝ってくれへん?」と頼まれたり。私もそう、おなかに娘がいる時に道ですれ違った知らないおばさんから声をかけられて励まされたことがありました。

一人ひとりが目の前にいる人にそうしていったら、世界はどうなるでしょう。そんなことを考えながら、娘と一緒につくっています。

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フリーペーパーをつくっていたからこそのつながりができました。そんな方々に向けて、「友だちにお手紙を書くような」感じで書き綴っています。お元気ですか? 日々、いろいろなことがありますが、どうかご自愛くださいね。

小森利絵より




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