22通目

娘考案「おうち」折り

こんにちは。お元気ですか?
どんな毎日をお過ごしでしょうか。

私も、娘も、元気にしています。

私は昨年、30代2回目の厄年を迎え、「なんかわからないけれど、凄まじくしんどい」という日々が続いていました。心も内向きに「仕事以外は家に閉じこもっていたい」「人とも極力関わりたくない」「心の中で自分を傷つける言葉が浮かぶ」という状態。とにかく心が疲弊している…「どうしてだろう?」と考える中で思い当たったのは厄年ともう一つ、日々の中で悪意や吐き捨てられるような言葉に傷ついているのかもしれないということでした。

インターネットやSNSの普及などによって、誰もが気軽に、その時の勢いに任せて発信できるようになりました。多様な価値観や想い、考えが共有されるようになった一方で、悪意や相手への想像を欠いたもの、一方通行の突き刺すメッセージをたくさん見かけるようにもなりました。

言葉の端々から「そんなに完璧な人間じゃないと生きていたらいけないのか」「そこまで追いつめられないといけないのか」と思うほどのものを感じ取り、ほかの誰かに向けられた言葉であっても、見ている私自身も傷ついているんだと思いました。

そんな日々の中でよく思い出したのは、広告代理店に勤めていた時に「自殺予防キャンペーン」のコンペに関わったこと。私の記憶ですが、主担当者が「有名芸能人を呼んで、話題性のあるものをすればいい」といった話をしていたので、私は「自殺しようとしている人たちのことを考えようとしているのか」など感情のあまり泣きながら訴えたことがありました。私の意見に賛同してくれた人もいましたが、訴えかけた相手とは関係性がぎくしゃくしてしまったのを覚えています。今振り返れば、相手に対してその内容を考えた真意を聞かぬまま、「表面的にしか考えていない」と自分勝手に怒っただけでした。

その私の言動は今溢れているメッセージと同じだと思ったんです。

SNSなどを見ていて思っていたことがあります。私も賛同できるメッセージだけれど、なんかモヤモヤちくちくしてしまう・・・どうしてなんだろう? その理由を考えてみると、そのメッセージから「この意見(自分)が正しい。あなたは間違っている」というものを感じ取れるからかもしれないと思い至りました。自分とは違う価値観や考えを拒絶したり真っ向から否定したり、その真偽や真意などを知ろうとも調べようともせず、相手の言葉の表層だけをすくって、都合のいいように解釈して言いたいことを言っているだけのようにも思えたり。賛同する人や同調する人にとっては「その通りだ」と思うメッセージかもしれないけれど、実は暴力的なメッセージなのではないか。そんなメッセージを投げかけられたら、自分を守ろうとする防衛機制が働いて、結局は互いに主張し合うだけで平行線のままに終わってしまうのではないかなあと思っていました。

あのコンペでの出来事もそんな感じになっていたんだと思います。

もしあの時に戻れるならば、「相手の根本にある想いや考えを聞き出せるように問いかけてみればよかった」「それを聞いた上で、自分が思ったことを伝えればよかった」と思います。また、自分の価値観や意見、想いなどをガチガチに固めず、誰かの価値観や想い、意見などを受けて、自分が感じたり思ったり考えたりしたことも「編み物」のように編み込んで深めていけたらいいなあと思うから、自分の中に編み込める余地を残すとともに、自分の想いや考えなどを伝える時も、その余地を相手に感じてもらえるような伝え方ができたら、相手も言いやすくなるのではないかなあとも。

「それって綺麗事なんじゃないの?」「相手次第では攻撃的にならざるを得ないんじゃないの?」「1対1ならまだしも、対集団では難しいんじゃないの?」と引き続き、自分につっこみを入れながらも、こうして自分の考え方やコミュニケーションのクセを見つめ直し、「こうできたらいいなあ」と思い直すことで、少しずつでもよりよくなっていけたらいいなあと思います。約9年前のコンペの出来事をこうして振り返られたのは1つの成長でしょうか?!

そんなことを最近、考えていました。

最近、どんなことを考えていますか?

小森利絵



~つらつらと~

■先日お友だちと2人呑み。おしゃべりする中で、自分にとってつらかった出来事に対して「~された」という被害者意識が根強い自分を発見。年齢を重ねるごとに、「そうせざるを得なかった」相手のことを少し想像できるようになった気がしていたけれど、口から出てくるのは自分が「~された」ことばかり。そのほかにも「前にこんなことをされた」という色眼鏡で見続けてしまっていることが多いなあと改めて。もし自分だったら「以前、○○だった」と思われ続けていたらしんどいし、誰しも知ったり体験したりなど日々積み重ねていく中で成長も変化もし続けているものです。でも、一度つけた色眼鏡を外すのは難しい。それでもこうした気づきを積み重ねて、少しずつでもと思います。

■そういえば、2013年発行の「えんを描く」特別版でも、コミュニケーションについて書き綴っていたことを思い出しました。えんを描く特別版「すきなものから ひろがって つながって」2号。全内容をウェブ上で公開中↓
http://freepaperloopdrawing.blogspot.com/2014/05/2.html

■きっかけはフリーペーパー!! かつて東京・高円寺で家庭料理のお店をされていた「みじんこ洞」さん。もともとミニコミを発行されておられたそうで、フリーペーパー&ミニコミ好きが集まってごはんを食べながら談話する「ミニコミ会」開催、フリーペーパー&ミニコミ検索サイト「みにこみ洞2」運営など、フリーペーパー&ミニコミ愛を感じるお店でした。みじんこ洞さんとの出会いは確か2013年、ツイッターでみじんこ洞さんのことを知り、「『えんを描く』を置いていただけませんか?」とメールを送ったことを機に、置いていただけることになりました。2016年には初訪問。「こんなフリーペーパーが…」と、まるでマギー審司氏の手品のように、引き出しから次々とフリーペーパーが!! 「昨日はこのフリーペーパーの発行者が来ていましたよ」なんてお話も聞いたり、個人発行のフリーペーパーと家庭料理(その日は「豚肉と大根のとろとろ角煮」を食べました)の組み合わせが心に染みたり。フリーペーパーをつくっていなかったら、出会えなかったかもしれない出会い。みじんこ洞さんは2018年に閉店後、「紙もの&てづくりまつり」というイベントを主催されています。そのイベントに置いていただくため、「新しい号をつくろう!」と、この23通目を書き綴りました。




「えんを描く」とは・・・

母と娘(小学生)でつくっています。日々、さまざまなニュースを見ながら、つらくなったりかなしくなったり。なんでこんなことが起きるんだろうと思うことがあります。この現実を変えるほどのことはできないけれど、「近所の人に挨拶する」「連絡を最近とっていない友だちにメールを送る」など、一人ひとりが身近な人にしていくことで、変わっていくものがあるのではないかなあ・・・そんなことを考えながら、つくっています。


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